■ささやき■ きいこさま
こんなことは以前にもあった。いつ?わからないのに、そんなことばかり考えている。腰にまわる腕の感触、頬にふれる、あたたかな手、息がつげないほど何度も繰り返される口づけに、意識が遠のきそうになる。
どきどきと心臓の鼓動がうるさい。手の指先まで痺れてくる。立っているのもつらくて、ふるえる手で必死に彼の腕にしがみつく。甘い感触がやさしすぎて、幻のように溶けてしまいそうな気がして、必死にしがみついて……
「……様?」
何か声が聞こえた気がして顔をあげた。
「フレア様?大丈夫ですか」
すぐ目前に妖精ローザがいて、心配そうな顔をしている。
「え?あれ?」
フレアは一瞬状況を把握できなくて、きょろっと辺りを見まわし、もういちどローザに視線を合わせた。
「えーと。なんか、ぼーっとしてたみたい」
「というより、寝てましたけど」
「えっ?」
「悪い夢でもごらんになったんですか。うなされてましたよ」
顔を覗きこまれて、ぎくっとしたように身をひいた。
「夢…?」
どこか半睡状態の、ぼんやりした口調でつぶやきながら、ふいに真っ赤になって、唇に手をあてた。
「顔が赤いですよ。具合でも悪いんですか」
どこまでも冷静にいうローザだが、心配しているのは表情でわかる。
「あ、うん。なんでも……なんでもないの」
慌てて手をふった。どんどん思い出してきて、顔が火照ってくるのがわかる。
なんて夢を見たんだろう。しかも、これじゃまるで白昼夢のよう。
「大丈夫ですか、今日はもう休まれたほうが……」
「ローザ。夢に出てくるひとって、逢いたいひとなのかな」
「はあ?」
フレアの唐突な言葉に、さすがに呆れ顔になって、ローザは溜め息をついた。
「逢いたい方の夢でもご覧になったんですか」
「……えーと」
返事につまってフレアはうつむいた。逢いたいのだろうか。それよりいつから逢ってなかったろうか。あの日以来?こんな夢を見るほどの何があったというんだろう。自分でもわからない。わからないことは考えてもしょうがない。
「それより、今日の予定を立てなくちゃ」
自分からいっておいて話題をそらすように席を立って、予定表と報告書をひろげた。勇者の状態を知るために、インフォスの全体を見わたせる水晶版を見る。天から見れば、それは地図。勇者たちは、ただの点。点をなぞって、フレアはふいに黙りこんだ。
「フレア様…?」
傍までやってきたローザが、ますます不安そうな顔つきになるのを見て、息をつくように笑った。胸にわだかまる、この気持ちは何だろう。かたちにならない苛立ちが、胸の奥からわきあがってくる。
「あ!天使様ぁ!勇者さまが面会したいそうですぅ」
そのとき扉がひらいて、ぬいぐるみのかたまりが入ってきた。フレアの補佐をするもうひとりの妖精、フロリンダである。
「勇者シーヴァス様がお会いしたいっていってます」
かちゃんと水晶版が音をたてた。フレアは思わずそれを取り落として、片方の手で胸のあたりをおさえていた。
「フレア様?」
傍で様子を見ていたローザが声をかけてくる。心配しないでといいかけて胸がしめつけられるように、きゅっとなった。だから、これは、何。
「シーヴァスが…?」
声が、ふるえる。
「そうですけど、どうなさいますかぁ」
「会います。うん、会うよ」
胸から手をおろして、ゆっくり呼吸をととのえた。机上にひろがった書類を片づけて、顔をあげたときには、いつもの天使の笑顔を浮かべていた。
「それじゃ行ってきます」
翼をゆっくりとひろげて青空へ飛んでいく。
それを見送りながら、ローザとフロリンダは顔を見あわせて、ふっと笑った。
「最近の天使様、かわいくなったと思いません?」
ローザがいうと、フロリンダは、思いっきりうなずいた。
シーヴァスは国境の森のなかでフレアを待っていた。天空から地上を見下ろし、彼をみつけて降りていく感覚も、フレアにはなじみのものだった。違うのは、自分を見つめる視線を痛く感じること。近づくほど強くなる。
「フレア…」
名を呼ばれて、顔をそむけた。シーヴァスの傍へ降りたって、言葉につまる。
「フレア?忙しいところ呼び出して悪かったな」
しばらく面会にすら来なかったフレアへの皮肉だろう。フレアは困ったように肩をすくめて、軽く頭を下げた。
「あの、すみません。いろいろやることがあって……」
「そうだろうな」
苦笑まじりの溜め息が聞こえる。気づまりな沈黙がやってくる。いつもと様子が違うフレアに、シーヴァスも戸惑っているようだ。フレアは意を決したように心持ち顔をあげて、シーヴァスにいった。
「今日は、どうかなさったんですか?なにか必要なものでもありましたら…」
我ながら歯切れが悪い。上っ滑りな言葉のように聞こえる。
シーヴァスは、そんなフレアを見て、ふと苦笑しながら言葉をつないだ。
「では、君の羽根を貰おうか」
「え、でも、この前はいらないって……」
「欲しくなったらいってくれといってなかったか?」
「……はい」
確かにそういったけれど。と、シーヴァスを見上げて、思ったより近くにいることに気づいて、フレアは慌てて後ずさった。シーヴァスが苦笑する。
「私と視線を合わせたくない理由でも…?」
「そ、そんなことは……」
ない。といいかけたとき腕をつかまれて、引き寄せられる。わざと視線を合わせるように顎に手をかけてくる。その感触に、フレアの中で何かが、はじけた。つきん、と、走る。シーヴァスに抱きしめられることなど初めてではない。そのたびに高鳴る心臓も知っている。
合わせた唇の感触も、焦るほど甘い感覚も。それなのに、どうして。今になって……フレアは、唇が重なる瞬間、思わずシーヴァスを突き放していた。
声も出ないほど苦しくて、胸が痛かった。
「フレア…?」
シーヴァスがいった。
「そんなに厭なら、二度としないが」
「えっ?」
驚いて顔をあげると、シーヴァスは苦笑して肩をすくめた。
「やっと見たな」
皮肉な口調に動揺をかくしている。フレアには、わからなかったが、シーヴァスは、かなり動揺していた。このところ面会にすら来なかったフレアを妖精を通じて呼び出してみれば、こうだ。自分がいったい何をしたのかと先程から頭のなかで考えている。たしかに、何もしなかったとはいわないが。
「あの、シーヴァス、すみません」
フレアは息を整えるように深呼吸して、胸に手をあてた。
「羽根、どうしても必要ですか」
なぜか話がそこに戻っている。この際、羽根は口実だというのに。
「どうしても必要だ。といったら?」
「……その、癒しが必要ですか」
真剣な面もちのフレアを見て、シーヴァスは苦笑した。
フレアは首をかしげた。羽根はレイヴに渡した。所望されたからだ。シーヴァスにも渡したい思った。「私には羽根など必要ない」……そのときシーヴァスがいった言葉。けれど、フレアの心に残っているのは、その言葉ではなかった。
「他の何より、疲れを癒す薬になる」
そう、この言葉だ。考えるように唇に指先をあてて、フレアは俯いた。あれから、任務のことで訪問して以来、シーヴァスには会っていなかった気がする。なんとなく避けていたのかもしれない。理由は……
じっとフレアを見たまま動かないシーヴァスに気づいて、フレアは、ふわっと翼をひろげて、かるく、宙に浮かんだ。
「シーヴァス」
思いきったように名を呼んで、
「……癒しになりますように……」
「フレア…?」
問いかける唇に、そっと触れるだけの口づけをして、すぐ離れた。
「あ、あの……羽根はこの次のときにでも……その、ちゃんとしたものをお持ちしますから……」
つかえつかえ早口にいって真っ赤になりながら、わたわたと飛び立っていく。シーヴァスの返事も聞かずに、その反応も見ないまま、空のかなたへ消えていくフレアを見上げて、シーヴァスは茫然としていた。
「どういう…意味だ…?」
口に出してつぶやいて、ふと苦笑する。何かをごまかされた気分で、複雑な表情になる。天使の拒み方がいつもと違っていた。そのことのほうが心にきていて、フレアからのはじめての口づけも、浮きたつものにはならなかった。
本気で、羽根が欲しくなった。茶化して皮肉に何でもないことのようにいったが、逢えない期間が長引くほどに、何か形あるものが欲しくなる。すべてが幻のように消えてしまいそうで……
「……らしくないな」
溜め息が胸にのぼった。
「全く……」
らしくない。皮肉な笑を浮かべて、肩をすくめた。
そんなシーヴァスの様子になど気づきもせず、なぜ呼ばれたのか、その理由をきちんと聞いていないことにも気づかず、ペテル宮に戻ったフレアは、どきどきする心臓をおさえるのに忙しかった。
「天使様、フロリンダが敵の探索に向かいました」
すかさず報告に来たローザが、フレアの様子を見て顔をしかめた。
「……また、シーヴァス様と何かありました?」
また、に力がこもっている。
「え?」
焦ったように息をのんで、ごまかすように水晶版に視線を落とした。シーヴァスが移動しはじめている。そこに視線が引き寄せられる。
「フレア様?」
「あ。ううん、そうじゃなくて……」
どきどきする鼓動が耳にうるさかった。
「えーと。あとで、天界に行きたいんだけど…」
ぼんやりと、
「シーヴァスがね、天使の羽根が欲しいんだって」
それが面会の理由だったとでもいうようにいうと、フレアは笑った。正確には「天使の羽根」ではなくて、フレアの羽根だったのだが、フレアのいう「ちゃんとしたもの」とは、きちんと魔法のかかった宝物殿からいただくアイテム以外の何ものでもなかった。
「はい、かしこまりました」
ローザが頷き、スケジュールを確認している。それを見ながら、フレアはふと息をついた。
「ローザ、わたしね」
「はい」
「わたし、シーヴァスが好き」
決意したように、もういちどいった。
「シーヴァスが好きなの」
「はい」
知ってますけど。という言葉は呑みこんでいる。今更なにをいってるんだろうというのが正直な感想だ。
「だめかな」
「任務に支障がなければ、だめということはないと思いますが?」
「そうよね」
ほっとしたように笑って、胸に手をあてた。
シーヴァスが、好き。好きという言葉が気持ちを軽くする。唇に手をあてて、とくとくする胸の鼓動に耳をすませた。
いまは、それが、とても心地よかった。