「アゼリアとは、この森で知り合ったんだ」
そう言ったレザンの声に、シーヴァスは無言で顔を上げた。
並んで足を進めている天使も、同じように青の瞳を向けている。
森の最奥、アゼリアのいる場所にまで先導するために、わずかに前方を飛んでいる彼の細かに震えている羽根を見るともなく見ながら、続く言葉を待っていると、
「妖精界で遊ぶのにも飽きたし、一度地上界に行ってみようかって思ってた時に、
何か妙な着ぐるみ着た妖精が、ティタニア様に話してるのを聞いて…来てみたんだけど」
「…あれは、やはり妖精の感覚でも奇妙なのだな」
思わず漏らした呟きは、どうやらレザンには聞こえなかったらしい。
だが、耳に届いたのか、背後からナーサディアの抑えた笑声が響いてきていた。
「何でもないわ…気にしないで」
いぶかしげな視線を向けてきたレザンに、軽く手を振ってナーサディアが応じると、眉を寄せながらも再び前を向いて話しはじめた。
「想像してたよりずっと綺麗で…しばらくぼうっと眺めながら、ふらふらさまよってたんだ。
そうしたらいつのまにか、あのボルンガの群れに囲まれてた」
地上の魔物に初めて相対したレザンは、じりじりと迫りくる群れの姿に驚いて逃げ出そうとしたのだが、呼びとめる声に思い止まったのだという。
「高い声で…女の子だってのはすぐに分かった。長くて、綺麗な赤い髪と瞳をしてて…
俺みたいに、赤い花をこんな風に纏ってて…」
アゼリアと自ら名乗った妖精の少女は、非礼をわびると、理由を話しはじめた。このボルンガの群れは、元より害意ある魔物たちではなく、デュミナスの森を人間に追われたために、新しい安住の地を求めて西へと下ってきていたのだ。
それを聞いた彼女は、彼らについて平穏に暮らしてゆける森を探すことにし、ようやくこの森ならば、と思い定めたのだという。
「でも、この花のおかげで、人間たちが結構ひっきりなしに入ってくるだろ?それで…」
言いよどんだレザンの代わりに、シーヴァスは言葉を継いだ。
「何らかの術をかけて惑わし、意識を失わせて森から放り出していた…そういうことか」
「しかしまあ、そのせいで俺達みたいなのが調べに来ちまったんだから、逆効果ってもんだよな」
「アゼリアは必死だったんだ!あいつらを助けてやろうって、一生懸命で…!」
「落ちついて。あなたの想いは分からなくもないんだから…だけど」
激したレザンをなだめるように声をかけたナーサディアは、すっと瞳を細めた。
「ローザを捕らえる必要はなかったはずよ。何故、あの子にそんな真似をしたの?」
「それは…」
「彼女が、ここの異変に気付いてやってきたのね?あなたたちに何と言ったの?」
そう言って答えを待っているサリューナのひたむきな瞳と、ナーサディアの厳しい視線にさらされたレザンは、やがて観念したように口を開いた。
「…あいつは、俺達から一通りの話を聞いて、とりあえず天使に相談する、って言ったんだ。
自分の一存ではどうにもできないけど、天使様ならいいようにしてくれるって…
なのに」
小さな拳をきつく握り締めると、レザンは顔をうつむけてしまった。
「守護天使付きの妖精だってのが分かった途端、アゼリアはいきなり術を繰り出して、
止める間もなくあいつを花の檻に閉じ込めちまったんだ」
「!どうしてそんなことを?」
「分からない…まるで一瞬で人が変わったみたいに、怖い顔をしてた…けど、次の瞬間、
俺を見た顔はいつものアゼリアで…笑いながら、こう言ったんだ。
『この妖精の力を使えば、天使の力など借りなくても、十分彼らを助けられるわ』って。
それで、俺にボルンガたちを操る術を教えて、準備ができるまで誰も寄せつけるなって…」
「…その言葉からすると、ローザの持つ力を無理に引き出そうとでもいうのだろうな」
「急がねえとまずいことになりそうだな、そりゃ」
「言うまでもないわね。サリューナ、天使や妖精たちは普通そんな術が使えるの?」
歩みを一段と早めながらナーサディアが尋ねると、サリューナは小さくかぶりを振った。
「治癒や多少の攻撃の呪はもちろん使えますけれど、強制的に力を奪うというものは
聞いたことがありません」
「ふん…腑に落ちないことばかりだが、とにかくその少女と対面するよりほかないようだな」
ともすれば、張り出した枝葉に絡めとられかねないマントを器用に捌きながら進んで行くシーヴァスの横で、不意にレザンが誰にともなく呟いた。
「…アゼリア、いったいどうしちまったんだろう…初めてここで会った時は、本当に奴らのことを心配してて…危なっかしいくらいにいつも頑張ってたのに」
「…似たような女性を知っているような気がするな」
「なんだって?」
「いや…」
わずかに後方で、勇者と剣士に挟まれるようについてきている天使を顧みたシーヴァスは、軽く苦笑を刻むと、ふと思いついて尋ねた。
「もし…彼女が本当に魔性のものであったなら、君はどうする?」
「アゼリアが!?そんなことあるもんか!」
「魔物が昼夜を分かたず徘徊するこの世界だ、ありえないことではあるまいよ」
「それでも…!」
レザンは紫の瞳に強い光を宿して、きっとシーヴァスを見据えてきた。
「…それでも、俺はアゼリアを信じてる。あんな優しい奴が、誰かを傷つけるのを望んでる訳ないんだ!」
「ならば、そう信じていればいい」
「え…?」
「この中で、彼女の真の姿を見極められるのは君だけだ。それが聖であれ魔であれ…
そこに見出したものが、君の望む少女なのだからな」
「お前…」
それ以上何も言えずに見つめてくるレザンに、シーヴァスは唇を吊り上げると、こう付け加えた。
「まさしく同病相憐れむ、といったところだな」
治すつもりもなく、治すことができるのかすら疑わしい病。
あえてその名を口にはせず、シーヴァスはただ瞼を伏せていた。
導かれるままに進むうちに、涼やかな色合いは周囲から姿を消してゆき、次第に空を覆う緑は深みを増してゆく。
時刻はまだ昼下がりといったところだろうが、鬱蒼と生い茂った枝葉に包まれたようなこの場所には、時折矢のように差し込んで来る陽光しか望めはしなかった。
「…どことなく、嫌な空気が漂ってきやがったな」
顔をしかめたベイルが言った通りの気配を皆感じ取っていたのか、それぞれに警戒の色を見せて身構えている。
「この先だ…奥に、さっきの白い花の大木があるんだ。アゼリアはそこにいる」
宙に留まっていたレザンが、すっと腕を上げて、暗い淀みのように奥へ続いている方角を示すと、羽根をひらめかせて進んで行く。
一切ためらいの見られないその動きに、シーヴァスは微かな不審を覚えぬではなかったが、今更引き返したところで益はない。
ましてや、疑うことを知らぬ天使が、その後を追おうとしているとなればなおさらだ。
シーヴァスは自身のすぐ側をすり抜けて、先に進み出ようとしている細い肩に手をかけた。
「え、シーヴァス…」
「君は先走りすぎるきらいがあるからな…私の背後にいたまえ」
驚いて目を見張った天使を引き寄せ、護るように前に立つ。
これまでに何度となく取ってきた行動ではあるが、どうもこの天使はそれを当然と受け取らぬところがある。
彼女がすまない、と思う必要などないのだ。
懇請を受けたとはいえ、勇者を引き受けたのは自身の意思なのだから。
「…有難うございます、シーヴァス」
そして、背中を打つ涼やかな声を、報酬として受けることを選んだのも。
そんなことを思いながら、厚く降り積もり、層を成して柔らかな感触を伝えてくる落葉を踏みしめながら進んでいく。
レザンは随分と気が急いているのか、かなり前へと先行していたが、やがて薄闇に紛れてしまい、姿が見えなくなった。
「ったく、羽根があるのとねえのとじゃ雲泥の差か。おい、レザン!」v
「待て、ベイル。あの辺り…妙だとは思わないか」
彼方に望む光景の中に、何か違和感を感じて足を止めたシーヴァスは、その腕を掴むとベイルに注意を向けさせた。
細い黒の瞳をさらに細めて、しばしベイルは目をこらしていたが、やがて呟いた。
「…赤い…靄か…?」
薄闇の中にそびえたつ、天を衝くかの如き黒々とした影を落とす大木が、奇怪な腕のような枝を辺りに差しのばしている。
それこそが、先刻聞いていたサリアだと気付くのに数瞬を要したが、奇妙な点はそれだけではなかった。
常に微風を受けているかのように、ざわめきを生み出している葉は暗緑色を成し、その周囲を、深紅の彩りを見せる靄のようなものがとりまいているのだ。
「霧というか、靄というのか…サリューナ、どうしたんだ?」
微かに身を震わせているサリューナに気付いてシーヴァスが声を掛けると、天使は胸元に引いた手を握りしめながら、唇を開いた。
「…とても濃密な邪気が満ちています…皆、気をつけて…!」
天使の警告が終わらぬうちに、大木の正面に白光が閃いた。
「…うわあああああっ!」
「!レザン!」
同時に上がった高い悲鳴に、サリューナが名を呼んで走り出す。
一瞬遅れてシーヴァスは地面を蹴ると、足の速い天使を追ってすぐさま駆け出した。
足捌きの良いとはいえない長衣を纏っているにもかかわらず、軽い足音を立てるのみで森の中を突き進んで行く天使に、つかず離れずついてゆくと、不意に木々の間を抜ける。
「きゃっ…!」
「サリューナ!」
途端に声を上げて立ちすくんだ天使を、半ば抱きとめるようにしながら、彼女の肩越しに視線を向ける。
「!これは…」
張り詰める異様な空気に、シーヴァスは表情を険しくした。
辺りを覆うのは、まさしく瘴気。
そして、前方に鎮座しているのは、奇怪な姿を見せているサリアの巨木であった。木肌が漆黒に染め上げられている幹も異様ではあったが、それにも勝るのは根であった。生き物の手足を思わせて、縦横に張り出した巨木の根は正面にまで伸び、何かを包み込むかのように編み上げられ、いくつもの大きな球をかたちづくっている。
その中心に光るものを見つけたシーヴァスは、見極めようと目を凝らした。
「あれは…ローザか!?」
普段には見られない、淡い緑の光を全身から放ちながら、眠っているかのように瞼を伏せたまま、ひたと立ち尽くしている姿が見える。
「それだけじゃないわ。奥に閉じ込められているのは、レザンよ…!」
横に並んだナーサディアの声に促されて見れば、わずかに幹寄りに位置する球の中に、同様に封じ込められ、紫の光を放つ少年の姿があった。
それらを眺め渡したベイルが、顎を撫でながら考えを口にした。
「…あんまり考えたくねえんだが、この樹がここまででかくなったってのは…」
「おそらく、あなたの推測通りです、ベイル」
やや蒼褪めながらも、サリューナがそう応じる。
「術を介して、樹木に妖精の力を注ぎ込んでいるんです…!酷いことを…!」
『あら、それは心外だわ』
奇妙に反響しているような響きを帯びた声が、周囲の空気を震わせた。
と、漂う瘴気を巻き込むように流れた風が、赤の靄を伴って一点に収束したかと思うと、中心にひとつの姿を現出させる。
『何もかも、あの可哀想な魔物たちのためにしたことなのに』
薄闇の世界に鮮やかにまでに映える、赤の大輪の花を身に纏った、透明な羽根持つ少女が、密やかな笑みをたたえて佇んでいた。