■空の天辺■ BY.森生
「シーヴァス。」
やさしい声で、元天使が呼びかける。シーヴァスは、彼女を振り向いて笑いかけた。
「何を見ているのですか?」
不思議そうな顔をして、彼女はシーヴァスの肩越しに彼が見ているものを覗き込んだ。
「あ、新しい本ですか。絵がきれいですね」
彼が意外にも読書家でたくさんの書物を書斎にしつらえていると知ったのは、彼の屋敷に
住むようになってから。地上についての知識を早く知りたいと願う彼女にとって、それは
大変都合のいいことでもあった。シーヴァスに何冊かを選んでもらって熱心に読んでいる
彼女であったが、最近は自分でも書棚の本を選ぶこともあった。何冊かの書物を読むうち
に、好みができてきたのである。彼女が惹かれるのは、絵の美しい本だった。シーヴァス
も、父親の血がそうさせるのか、美しい彩色の挿絵の入った本を何冊もコレクションして
いた。今、彼が見ているのもそんな本らしかった。
「君のことがのっている」
おもしろそうにシーヴァスが言う。不思議そうな顔をして、彼女はシーヴァスの見ている
書物に再び目を落とした。
『・・・天使は天界にあって、神の御業を明らかにするものなり。そのもっとも大いなる存在を・・・』
「? この本は?」
彼女は不思議そうに尋ねた。シーヴァスは、笑いながら答える。
「インフォスの人間が書いた、天界の研究書だ。
君がいた天界について、天使についていろいろと書いてある」
「シーヴァス、天界のこと、知りたかったんですか? 言ってくだされば私がお教えしましたのに」
首を傾げて彼女が言う。シーヴァスは肩越しに彼の手元の本を覗き込みながらそう語りかける彼女の顔をそっと引き寄せるとその頬に口付けた。
そして、今自分が見ていた場所を閉じるとページをずっと繰ってゆき、色鮮やかな挿画のページを開いた。
「まあ、きれいな絵・・・」
うっとりと見とれる彼女にむかってシーヴァスが言う。
「天界の花園らしい。君が見ていた天の花園に似ているか?」
その言葉に元天使は少し不思議そうな顔をした。
「似ている・・・・かもしれませんけど、同じというわけではありません。
天界を本当に見た人間はいないでしょうし・・・そうですね、インフォスの概念では見ることのできないものがやはり、天界にはあるのです。
でも、この絵はこれで本当に美しいです」
彼女の言葉にシーヴァスは「そうか」と言って苦笑した。
「・・・・あの、シーヴァス、私のためですか?」
おずおずと彼女がシーヴァスに尋ねる。彼女はシーヴァスの背後から彼の前へと進んだ。シーヴァスは、本を閉じると自分の正面に立った彼女を引き寄せる。本を自らの傍らに置くと、ひざの上に彼女を座らせた。少し恥ずかしそうにしながらも、彼女はおとなしく彼に従った。
「君の帰る場所を私が奪ってしまったから。
君が少しでも懐かしい場所を思い出せるように・・そう思ったんだがね。
いつのまにか、私のほうが熱心に読んでしまったよ。
もしかして君が育った場所が本当にこんな場所なのかと思ってね」
シーヴァスは彼女の顔を見ながらそう言った。どう答えていいのかわからず、彼女は黙ってシーヴァスの瞳を見つめ返していた。そんな彼女の表情に気づいて、シーヴァスが苦笑する。
「君がそんな顔をする必要はないと思うんだが・・・。
少なくとも、なかなかに興味深い本であるには違いないことだし」
ぎゅっと彼女はシーヴァスの首に抱きついた。
「・・・懐かしくないって言ったら嘘になると思います。
でも、インフォスの美しい自然の中に、天界の姿を感じることができます。
この美しい世界の端々に、天の祝福を感じるんです。
だから・・・私はいつでも、故郷の姿を見ることができるんですよ」
「・・・・ああ」
シーヴァスはそっと彼女を抱きしめた。
彼女は、そっと体を離すと、シーヴァスが傍らに置いた本を手にとった。そうしてひざの上で広げて見る。人が心の目で想像して描いた天の姿。彼女の知る天界とはその姿は違うけれど、美しいことに違いはなかった。
「・・・きれいな絵です。そして、きれいな場所。」
ページを繰る白くて細い指にシーヴァスの手が重なる。
「・・・君の育った場所のことを教えてくれ。
君がどんなことを感じてどんなふうにすごしてきたのか教えてくれ」
彼女はその言葉にほほ笑んでうなずいた。そして、手にした本のページを繰る。
二人で同じ書を見ながら、ゆっくりと互いの心の中の美しい場所のことを思い出し、語りあった。それは、確かに人の目にはけして見えない世界の話。けれど、誰もの心の中にある美しい世界の話なのだった。