■心の水面■ BY.森生
「やあ、君か」
舞い降りたとき、彼は柔らかな声でそう言った。青い空を背景にして、金色の髪が風に揺れている。陽の光を受けてその髪が少しまばゆく見える。けれど、それ以上に彼の無心な笑顔がまぶしく思えて、私の心の中に波が立つ。今となっては心地よい、その感覚。けれど、かつてはその感覚ゆえに私は不安の中にいました。
常に、平穏を保ちなさい。
心の中に水を感じて、水面を揺らしてはなりません。
アルスアカデミアで天使の心得としてまず学んだこと。
人を導く天使は、彼らを安らかにせねばならない。自らの心が平静でない天使に、人が癒されることがあろうか、と。
自分の心がこれほどまでに脆く弱いものだということを、私はその時まで知らずにいました。初めての任務に、とまどい、緊張しつつも私は勇者たちとの信頼関係をなんとか築きつつあると思っていました。皮肉屋で、けして素直な心を見せてくれることがなかったシーヴァス。教会でお母様の絵を真摯に見つめる彼の姿を見たとき、私はそんな彼の心に少し近づけた気がして、とても嬉しかった。それが、実際には他人に心を見せることを警戒している彼にとって、許し難い事だと気づいてもみませんでした。彼は自分はけして私に心を開いたわけではないのだと、そう思わせるために手ひどく私をからかいました。彼の心に触れたと、そう思いこんでいた私は、裏切られた思いでした。独りよがりな自分の思いこみが恥ずかしかった。恥ずかしくて、胸が痛くて、涙も出ないほどに、悲しかった。逃げるように、ベテル宮に帰ってそれからしばらくは、彼の顔を見ることもできませんでした。
以来、彼のそばにあることは、私に天使としての心を保つことの難しさを感じさせるものでした。ざわざわとした、不安とよくにた波が心の水面を揺らし、彼の一挙手一投足に反応する自分がいました。その胸の痛みと不安が何なのかわからず、・・・いいえ、わかってしまうことが怖かったのでしょう。それが怖くて彼を訪問することなくわざと日を過ごしたりしました。その行為自体が天使失格であるというのに、それでも彼に会うことが怖かったのです。けれど、彼と会わない日々は、胸苦しくて風が吹き抜けるように、私の心を揺らしました。彼と会うことも、彼と会わないことも、どちらも私の心の水面を波立たせ、天使の心をあるべき姿から遠ざけるのです。天使でなくてはならないはずの私の心を天使から遠ざけてしまうのです。
泣きたくなるような胸の痛みは、今までに感じたこともないもので。揺れる水面をしずめる術をもはや私は持っていませんでした。
シーヴァス、あなたは私を、天使としての私を変えてしまうのです。
あなたに会うことが、私は怖い。けれど、あなたに会えないことも、私は怖い。
泣きそうになってそう告げる私に、彼は言いました。
変わっていい、変わればいい。この世の万物はすべて変わりゆくものだ。
君がどう変わろうと、私は君のための勇者でいよう、天使の勇者ではなく、
君のための勇者でいよう。
そう言ったときの彼の瞳は優しくて、そう、あの教会で絵を見ていたとき以上に真摯な輝きを宿していました。そして、その光が、彼の言葉が今度こそ真実の想いを告げていると教えてくれました。
彼の指が私に触れたとき、大きく水面が揺れて水が溢れていくのがわかりました。彼の腕の中に収まって身体の総てを預けたとき、水を溢れさせた大きな波が穏やかにひいていくのがわかりました。彼の腕の中で、私はとても静かで優しい気持ちになっていたのです。
シーヴァス、あなたは不思議な人。
私の心に波をたて、そしてその波を簡単に鎮めてしまう。
彼は、そう言う私に向かって優しく微笑みながら答えました。
知らないのか、君もまた、私の心に波を起こしていることを。
君の翼は私の心に風を運び、君の言葉は私の心に輝く石を投げ込む。
けれど、私はそれを心地よいと思う。
君の風を感じ、君の心の輝く石を思うとき、波立つ自分の心を心地よいと感じるんだ。
それは、小さな驚きでした。彼の心を私が動かすことがあるなんて。
彼が私の心を揺らしているとき、私も彼の心を揺らしている。
揺れる自分の心を通して、私は彼の心を感じているのです。
寄り添い、惹かれあい、ときに反発しあいながら、私たちはお互いの心を感じあっていたのでしょう。
シーヴァス。
その名を呼ぶとき、私の心は緩やかにさざ波を起こす。
まるで、特別の響きを持つ名のように、彼の名を呼ぶとき私の心は天使から遠ざかるのです。
けれど、彼はそれでもいいと言ってくれました。天使ではなく、私のための勇者でいようと。そう言ってくれたから・・・私は自分の心のあるがままを受け入れようとそう思えました。
私の心は、彼の心を映す鏡のようなもの。
私が彼の名を呼ぶとき、彼の心もまた波だっているのです。私の声が彼の耳に届くとき、その声は風のように彼の心にさざ波を起こしていくのです。
彼の笑顔が私の心を揺らすとき、私の姿も彼の心を揺らしているのです。
そう感じるとき、私は彼の名を呼ぶことが歓びとなり、彼の笑顔が幸せになりました。自分を変えていくに違いない心の波立ちでさえも、私にとって心地よいものとなったのです。